高度経済成長を受けて

 日本は戦後、20年近くに及ぶ高度経済成長期を体験した。高度経済成長期は一般に、1950年代半ば(昭和30年前後)から、1973(昭和48)年に勃発した第4次中東戦争を引き金とする原油価格高騰(第一次オイルショック)までの期間といわれている。 
 この間、鉄鋼、電機、機械、建設、自動車など製造業を中心とした国内の主力産業は飛躍的発展を遂げ、世界に冠たる経済大国・日本の土台が形成された。製造業の発展、それに伴う運輸・物流量の飛躍的拡大、さらには輸送手段となる自動車の普及を受けて、運送業もまた飛躍的拡大を遂げた。中でも、トラック輸送は高度経済成長の足となり、あらゆる産業・経済の発展を縁の下で支えたのである。
 高度経済成長期の中でもエポックメーキングな年として記憶されるのが、1964(昭和39)年である。
 この年の10月、アジア初となるオリンピックが東京で開催された。東京オリンピックに照準を合わせて首都高速道路が整備され、東京・大阪間を結ぶ東海道新幹線が開通し、外国からの観光客を収容するための国際級ホテルが都心に建設された。ちなみに、当時、都議会議員を務めていた小野慶十は、東京オリンピックの舞台づくりに奔走している。   
 日本は東京オリンピックを成功させることで、戦後復興を見事に成し遂げた姿を全世界にアピールした。そして、これを踏み台に日本の経済成長はさらに加速していったのである。

一般区域貨物運送事業免許を取得

 トラック運送業の制度ができたのは、1951(昭和26)年に、発足間もない運輸省により「道路運送法」が施行されてからである。今日のように運輸行政が確立し、運送業者が陸運局の許認可を得てそれぞれの事業を行うまでには、戦後しばらく時間を要した。
 それまでは、戦時中の交通統制を除けば、一切の規制がなかったとまではいわないが、各運送業者が市場競争原理のもとに思い思いの事業を展開していた。小野運送店も例外ではない。道路運送法が施行されてからもしばらくの間は、同規模の運送事業者がそうであったように、従来通りの営業を続けていたと思われる。
 普通トラックを使用して荷物を運送する事業を行うには、「一般貨物自動車運送事業」の認可がいる。当社がこの認可を得て、つまり運輸省の正式認可のもとにトラック運送業を始めたのは、東京オリンピックの明くる年、1965(昭和40)年のことであった。
 この年の4月、東京・品川陸運局の免許「一般区域貨物運送事業」を取得し、晴れてトラック運送業者としてのスタートを切ったのである。そういう意味では、小野運送店の近代化はここから始まったともいえる。
 一般貨物運送事業(トラック運送事業)には二つの区分がある。一般路線貨物運送事業(路線トラック)と、一般区域貨物運送事業(区域トラック)である。路線トラックは認可を得た地域間の路線に従って混載輸送を行う業者向けで、区域トラックはその地域に存在する企業の専属(チャーター)で行う業者向けだ。日本ペイント専業で、売上高の大半を同社および関連会社が占める小野運送店は、当然後者の認可を取得した。
 区域トラック業者は、一つの工場や問屋から地域内の専属輸送を行うかたちでその後発展していった。一方の路線トラック業者は路線を延長し、ネットワークを全国規模に広げ、西濃運輸株式会社(岐阜)や福山通運株式会社(広島)のように大企業に発展していく企業が次々と現れた。
 そのほか、小野運送店では路線トラック業を使用し、全国配送するトラック貨物取扱業の免許も取得した。
 当社が資本金を240万円に増資したのもこの年である。こうして名実ともにトラック運送業者としての基盤整備を終えた小野運送店は、日本の高度経済成長、そして日本ペイントの工場進出や販路の拡大に合わせて、企業組織を拡充し従業員を増やしていった。

ともに飛躍のときを迎える

 『日本ペイント百年史・沿革編』を見ると、戦後の同社の歩みは次の4期に分けて語られている。復興期(昭和20~25年、進展期(昭和26~40年)、躍進期(昭和40~47年)、充実期(昭和48~56年)である。
 繰り返し述べてきたように、小野運送店の業績は日本ペイントの業績に呼応して伸びていった。日本ペイントの売上が伸びているときはそれに呼応して売上を伸ばし、日本ペイントの業績が低迷すればその下降曲線がそのまま当社の業績グラフに投影された。自他ともに日本ペイント専業と認める小野運送店の、それは宿命である。
 日本ペイントにとって最も伸び幅が大きい時期は、1951(昭和26)年から1972(昭和47)年までの20年間であった。小野運送店における荷の扱い量や荷動きをイメージするために、ここで簡単に日本ペイント百年史から同時期の概況を一部引用させていただく。

  • 進展期(昭和26~40年)
    「昭和25年6月の朝鮮戦争ぼっ発による塗料特需に対し、当社は製・販・装一体の共存共栄によって販売を促進し、朝鮮戦争終結後は新製品の開発、金属表面処理剤への進出、販売活動の積極化により売上を伸ばしていった。塗料の新技術時代に対応して、研究・開発を強化すると同時に、米国のメーカーと技術提携し、一方、30年代前半には台湾および東南アジア諸国の海外市場に進出した。」
  • 躍進期(昭和40~47年)
    「この間、日本経済は、いざなぎ景気とうたわれ、長期好況をおう歌し、当社もまた、企業体制を強化して、大きく飛躍した時期であった。国内では、新商品の開発、販売機構の整備、総合的品質管理の強化等により需要家の要望にこたえ、また、中央研究所、千葉、東京工場の整備拡充、広島、愛知に工場を新設した。」

 小野運送店はこうした日本ペイントの進展・躍進期の恩恵にあずかり、着実に売上を伸ばすとともに家内営業的な企業風土を刷新し、近代的なトラック運送業へと成長を遂げていった。
 小野運送店の近代化の歩みは、社員数および保有車両台数の伸びが雄弁に物語っている。 一般区域貨物運送事業免許を取得した1965年から1972年にかけて、社員数および保有トラック台数が急増している。トラック運送業に不可欠な車両とドライバーの体制を整備した上で、さらなる大きな飛躍の時期を迎えようとしていた。

日本ペイントが製販分離

 20年近く続いた日本の高度経済成長もついに終息のときを迎えた。第一次オイルショックの発生である。
 1973年10月、OPEC(石油輸出国機構)は石油公示価格の70%引き上げを通告。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は石油減産を決断し、いわゆる石油戦略を展開した。
 オイルショックの余波はすぐに日本にも到達し、石油を原材料とする製品が一斉に値上がりした。トイレットペーパーがスーパーから姿を消し、国民をパニックに陥れたのもこのときである。
 合成樹脂系が主流になりつつあった塗料業界も、原材料不足によりかつてない減産に追い込まれた。1973年度には145万トンまで生産量を伸ばしていた塗料は、第一次オイルショック後の1974(昭和49)年度には108万トンと、25%の大幅な生産減となった。
 こうした状況の中、日本ペイントは、この先の低成長時代を生き抜くために大掛かりな経営戦略の転換を行った。それが塗料業界初となった「販売会社制度」への移行である。具体的には、日本ペイントの汎用塗料部門と有力特約店を主体にした地区販売会社の設立──いわゆる“製販分離”に踏み切ったのである。
 まず、1973年12月、関東、近畿、中部、九州の4地区に、販売に特化した「ニッペ販売会社」を設立した。その後、中国、北海道、東北にもそれぞれ地区販売会社を設立し、全国8地区のニッペ販売を通じて製品を供給する体制を確立した。
 関東ニッペ販売(現在の日本ペイント販売)の社長を務めた小野力が、当時の状況を説明する。「それまでの日本ペイントは問屋制度をとっていて、日本ペイントから出荷する製品はすべて特約店に卸され、その下の二次販売店に直売りすることはなかった。二次販売店には必ず、卸機能をもつ特約店を経由して製品が売られていたのです。ところが製販分離を受けて、特約店の中の卸機能をもつ会社と日本ペイントの汎用品部門が合体し、関東地区においては関東ニッぺ販売が誕生しました。これによって製品の流れは大きく変わりました」

小野力が関東ニッペ販売社長に

 小野運送店の視点に立つと、これまで東京や千葉工場から出荷する製品を関東地区の問屋(特約店)まで個々に配送していたのが、関東ニッペ販売に一括して配送すればよくなったのである。
「当時、日ぺの特約店は国内に250社ありました。また、販売店はその10倍の約2,500社あった。こうした日本ペイントの販売戦略に異議を唱え、日ぺと合体するのをよしとしなかったある有力塗料店に、日本ペイントの東京営業所長だった私が出向し、2年かけて日本ペイントの販売網に参加させたこともありました。」
 日本ペイント製品の関東地区における販売・流通の総元締め、関東ニッペ販売のトップを親族が務める──これに勝る有利な営業環境はなかなか考えにくい。もともと専業であった小野運送店は、新たに設立された販売会社への荷の輸送においても主導的な役割を担うことは明らかだったが、そこへさらに最強の人的パイプがつながったのである。
「とはいえ、私は運送は小野にしろなどとただの一度も口にしていない。それでも、社内に暗黙の了解が生まれていたことは否定しません。1979年に日本ペイント販売の社長になったとき、たしか月6,000万円、年間約7億円くらいの仕事を小野運送店に出していました。」
 小野力は日本ペイント販売を1997(平成9)年に退社。大手企業で培った経営ノウハウを注入すべく、現在は小野運送店の常任顧問を務めている。

KDCに初の営業所

 昭和50年代に入り、小野運送店は日本ペイントの生産拠点・流通センター新設に呼応して、営業拠点をそれらの隣接地に展開していった。
 その先駆けとなり、新たな可能性を開く試金石となったのが、埼玉県白岡市のKDC(関東流通センター)内に1977(昭和52)年に開設された埼玉営業所であった。埼玉営業所は100年の歴史を有する当社が初めて設けた営業所となった。
 KDCは、日本ペイントの出資によって設立された関東地区の主力流通拠点である。東北自動車道と圏央道(首都圏中央連絡自動車道)が交わる久喜白岡JCの近くに位置し、首都圏・関東地区配送に適した立地条件にある。
 KDCは日本ペイントの汎用塗料の配送センターの役割を担っており、ここには運送業者が常駐し、特約店や販売店への製品配送はもちろんのこと、商品の入出庫、荷づくり、梱包、仕分け、保管、調色などの業務を含めて行った。小野運送店にとって、自社以外の場所でこうした関連業務を併せて行うのは初めてであり、小野八郎(元・顧問)以下5名を配置した。 「最初は倉庫の人間を含め5人で行きました。寮がありましたが、はっきり言って昔の飯場のようなもの。月~金と寝泊まりして、金曜の夜マイクロバスで東京に戻る生活が続きました。」(小野八郎)
  外に出て仕事をしてみると、自分たちで工夫しなければならないことがたくさんある。一番苦労したのは人集めだった。ピーク時には40人くらいのドライバーが必要となったが、慢性的な運転手不足の中、これは無理に等しい注文であった。苦肉の策で、地元の暴走族のリーダーに声をかけたこともあったという。
 派遣された社員一人ひとりの輸送効率や運送コストに対する意識、さらにはドライバーの質への関心が高まったことも大きな収穫だった。
「出掛けたクルマがカラで帰ってくることが多く、これを何とかしなければならないと思った。為男社長(当時)が、よく『空気を運んでも意味がない』と言っていましたが、このことだなと。帰りには原料を積んで帰ってくるというアイデアが生まれたのもKDCでした。ほかにも、運賃を安く上げるにはどうすればいいかとか、自然に経営者の視点でモノを考えられるようになりました。」
 当初、KDCには小野運送店のほかにもう1社運送業者が入っていたが、誠実かつ献身的に働く小野運送店の社員についていくのは難しかった。気がつくと、小野運送店と関東ニッペ販売の社員とで現場をすべて取り仕切るようになっていた。
「日本ペイントの信頼をさらに厚くすることができたという意味で、KDCに出た意義は非常に大きかったと思う。 そして、KDCの成功がその後の千葉、栃木、茨城への展開を可能にした」と、八郎は分析する。

工場進出に対応する

 昭和40年代後半~50年代にかけて、日本ペイントは全国にニッペ販売会社を設立して販売網の強化を図る一方、生産能力や物流機能を拡充することによって、年々拡大の一途をたどる塗料および関連製品の市場ニーズに応えていった。
 新たに工場や流通センターが新設されれば、そこに大きなビジネスチャンスが生まれる。工場から地域のニッペ販売会社へ、ニッペ販売から一般塗料店、塗料業者、あるいは現場へというように、新たな運送需要・配送ルートが続々と形成されていった。
 製販分離に伴って生まれたこうした新規の運送需要を取り込むには、小野運送店自体も積極的に営業所を展開する必要があった。初代為吉が日本ペイント東京工場のすぐ隣に事業所を設けたのに倣って、1978(昭和53)年に、千葉営業所(千葉県山武郡九十九里町)を千葉工場隣接地に開設した。また、1983(昭和58)年には栃木営業所(栃木県宇都宮市川田町)を栃木工場の近隣に開設、1985(昭和60)年には茨城営業所を昭永ケミカル株式会社つくば工場の敷地内に設けた。さらに、仙台事業所(現・宮城事業所)、群馬事業所と毎年のように営業拠点を増やし、日本ペイントの要請に応えると同時に新規需要を掘り起こしていった。
 こうした姿勢は日本ペイントから高い評価と信頼を獲得し、昭和50年代以降、日本ペイントとのパートナーシップは質・量ともにさらに強固なものとなっていった。  
 日本ペイントの製販分離後、小野運送店の社長を務めたのは、品川区役所を辞めて入社した為男であった。昌邦からバトンを受けた為男は、1976(昭和51)年から2000(平成12)年に至る24年間、社長として好況期の経営をリードした。 格別な営業努力をしなくても、昔からの取引実績があるので、日本ペイントからの安定した受注が約束されていた。だからといって、歴代経営幹部はそれにあぐらをかいて営業努力を怠ることはなかった。その様子を小野力は、発注者の立場で見てきた。
「為男にしろ、晃にしろ、私の社長時代は用事がなくても毎朝必ず関東ニッペ販売に顔を出した。おはようございますと、ただ挨拶をするだけ。しかしこれが簡単なようでいて、毎日となるとなかなかできません。そうした泥臭い営業を欠かさなかったですね。」
 日本ペイントの積極的な工場展開、地区販売会社の展開などに支えられ、この時期小野運送店は大きく業績を伸ばした。日本ペイントの製販分離に柔軟に対応し、それをスプリングボードに、営業エリアおよび事業領域の拡大を果たしたのである。

「物流2法」の施行で業績悪化

 日本ペイントとの良好なパートナーシップは今日まで揺らぐことなく、両社の共存共栄関係は100年の長きに及んで保たれている。しかし、全くの無風状態で今日まできたわけではなかった。最大の危機が訪れたのは、1990(平成2)年、いわゆる「物流2法」が制定されてからの数年間であった。
 貨物運送事業を行うには、さまざまな規制をクリアしなければならない。国が設定した参入条件があり、それを満たしても、運賃や営業エリアなどが細かく規制されていた。それゆえに新規参入が難しい業界となっていた。ところが1990年代に入りバブル経済が崩壊すると、構造改革や“規制緩和”があらゆる産業分野で行われ、運送業界をも巻き込んだ。
 1990年12月、「運送業への参入条件の緩和」「運賃設定・改訂の弾力化」「事業エリアの拡大」など、従来の運送業の規制を大きく緩和させる「物流2法(貨物運送取扱事業法・貨物自動車運送事業法)」が施行されたのである。これにより、貨物運送事業参入へのハードルが低くなり、新規参入業者が急増した。
 一方で、物流の合理化・最適化を推進する動きが加速していった。大手荷主の間では、原料や部品の調達から生産・販売まで、一連の取引・業務を一つの企業内もしくは関連企業間で完結させることで流通経路のムダを省く「SCM(サプライチェーンマネジメント)」の考え方が普及し、日本ペイント社内でも取引企業の総点検が行われていったのである。小野正彦(現・代表取締役社長)は言う。
「戦後、最大の危機といえばここになるでしょう。新規参入業者の台頭によって運賃価格は崩され、SCMによってこれまで配送に関しては当社がすべて元請けでやってきたのが、日本ペイント社内でやろうという動きが出てきた。ずっと右肩上がりで伸びてきた売り上げも、物流2法施行後は前年割れ、停滞を余儀なくされた。」

死亡事故が続発

 運送業者が絶対に起こしてはならないのが事故である。事故を起こせば約束の時間に荷物を届けることはできず、荷主に多大な損害や迷惑を及ぼすことになる。いや、貨物そのものに損傷を加えることもあり、その場合は弁償責任が生じる。
 転覆事故、転落事故、火災事故、踏切事故などの重大事故が発生した場合は国土交通大臣に速やかに報告しなければならず、マスコミにも公表され、運送業者としての信頼を損なうことは避けられない。死者や重症者を出した事故はいうに及ばずである。
 小野運送店は、馬車運送からトラック運送に変わった昭和30年代後半から、“安全第一”をモットーにドライバーへの安全教育を徹底してきた。それでも、営業を続けている限り残念ながら事故は起こる。ある年には栃木県内で死亡事故が立て続けに2件発生した。
 1件目は、高速道路の工事エリアにトラック(傭車※)が突っ込み、作業員が1人亡くなった。2件目はその1カ月後、社員が運転するトラックが国道4号線で追突事故を起こし、ハンドルで腹部が圧迫されたドライバーは内臓破裂により死亡した。事故原因を究明したところ、どちらもスピードの出し過ぎが原因で、法定速度で走行していれば避けられる可能性があることが分かったのである。
 この二つの重大事故を肝に銘じ、二度とこうした死亡事故を起こさないために、小野運送店は今日に続く徹底した速度管理を行うことにした。『法定速度厳守』『高速道路80キロ走行』の厳守がそれである。単なる掛け声に終わらせずこれを実践・励行させるため、アナログ式のタコメーターを全営業車両に装着。役員が月1回、各営業所を回って監査する体制を整えた。 「法定速度厳守も高速道路80キロ走行も、今ではどこでもやっている。しかし当時は珍しかった。深夜の高速、ほとんどのトラックが法定速度を無視して飛ばす中、ウチのクルマだけがゆっくり走っている。後ろから煽られたり、追い抜きざまに弁当の空箱を投げられたり、最初のうちはドライバーも苦労したと思います。それでも、粘り強く指導し貫き通したことで完全に定着させることができた。」(小野正彦)
※傭車:他業者の車両や運転手を一時的に借りての輸送業務

全国に営業所を展開

 日本ペイントの販売網が全国に拡大し、関連子会社の営業活動が活発化するにつれ、塗料および関連加工製品の運送需要もまた全国に拡大していった。こうした流れに呼応して、小野運送店の営業エリアも関東全域から全国へと広がっていく。
 小野運送店が関東圏外に営業拠点を設けたのは、1986(昭和61)年の仙台事業所が初である。その後、1997(平成9)年には、東証2部上場のユシロ化学工業株式会社の配送の一翼を担うため、秋田県横手市に秋田事業所を開設した。
 その翌年には、日本ペイントの関連会社のエースペイント株式会社の需要に応えて、名古屋事業所(名古屋市港区)を開設。さらに、2007(平成19)年には神戸事業所(現・兵庫事業所、神戸市東灘区)を開設するなど、日本ペイントの関連企業の営業展開をサポートするかたちで事業所の全国展開が進んでいった。とはいえ、小野運送店の主たる営業エリアはあくまでも関東圏内である。
「祖父の代からそうであったように、荷主の営業展開により需要が発生したところに出ていく。これが当社の基本的営業戦略です。いたずらに営業拠点を増やすことはしない。」(小野正彦)
 日本ペイント千葉工場がある千葉、流通センターが置かれている埼玉、そして栃木が主力であることに変わりはない。
また、このほかに毒劇物運搬では、大企業(トヨタ自動車系の関東自動車工業株式会社〈現・トヨタ自動車東日本株式会社〉、日産自動車系の日産車体株式会社)へのニッペ金属表面処理剤「ACP」などのタンク輸送業が多くあった。

産業廃棄物運搬に参入

 直近30年の歴史を語るとき第一に挙げるべきは、産業廃棄物収集運搬事業への参入であろう。
 危険物の配送事業に実績を持つ小野運送店は、運搬の対象をその延長線上にある産業廃棄物に広げた。単にモノを運搬するのではなく、回収から処理に至る一連の産業廃棄物処理を手掛けることで、環境浄化に貢献するグリーン事業への進出を果たしたのである。
 産業廃棄物収集運搬事業は、今日、運輸事業と並ぶ当社の営業の柱に育った。小野運送店では現在、日本ペイントおよび関連会社、塗料業者、塗装業者などで発生する廃塗料および廃油、廃プラスチック、鉄くずを中心とした産業廃棄物の収集運搬を手広く行っている。環境浄化に貢献するこの事業は社会的貢献度も高く、当社の新生面を開いた事業と高く評価されている。  
 産業廃棄物運搬事業への道を開いたのは、為男からバトンを受けて2000(平成12)年に6代目社長となった伊藤清の功績である。伊藤は秋田県出身。入社後、最初はトラック修理関係の仕事に従事し、後に営業に転じた。貞義四女義江の婿でもある。
 1981~82(昭和56~57)年頃、伊藤は日本ペイント関連会社のニッペグラフィックス株式会社を担当していた。あるとき、同社社員とともにゴルフに行くことになり、たまたま同社の取引先である株式会社朝日新聞社の支社長をクルマで送迎しているときだった。突然、「小野運送店さん、産業廃棄物やってみるといいよ」と提言されたという。
 朝日新聞の印刷工場では、新聞を印刷する際、感光性樹脂刷版材(NAPP)を洗い流した後の廃液が大量に生じる。その回収運搬・処理をやってみないかというのである。産業廃棄物については全くの門外漢で、その運搬回収がどのような仕事なのか、伊藤には全く予備知識がなかった。それ以前に、あまりいい印象を持っていなかったという。
「今は環境浄化という立派なビジネスになっていますが、当時はダーティーなイメージが強かった。日本ペイントというしっかりした運輸事業の軸もあるし、リスクを犯してやらなくてもという消極的な気持ちでした。ただ、朝日新聞の支社長からのお話であること、専門処理業者や産廃回収のノウハウも教えてくれるというので、とりあえずやってみようかと。」(伊藤清)
 社内に持ち帰って打診しようにも、伊藤同様、産業廃棄物の運搬や処理の知識がある者は皆無だった。最終的には「お前がやりたいならやれ!」という、当時の為男社長の一言で始まったという。
 このように、将来有望な新規事業として社内で検討されたわけでもなく、後で考えればタナボタ的というのが産業廃棄物運搬事業参入の真相である。願ってもない幸運に感謝すべきだろう。
 産業廃棄物収集運搬事業は朝日新聞の各工場を皮切りに、日本ペイント関連会社からの受注も好調で、年々急速に売り上げを伸ばしていった。その魅力は何といっても利益率の高さにあり、企業収益の向上という相乗効果を生んだ。1997(平成9)年、東京都の産業廃棄物収集運搬業の免許を取得し、その後、神奈川、千葉と営業エリアを広げていった。
  なお、さらにそのほかの分野で事業を行っている、小野運送店の関連企業として、現在では小野興業株式会社と有限会社オノがある。

ISO14001を取得

 2004(平成16)年2月24日、東京営業所は国際標準化機構が定める環境管理の国際規格「ISO14001」を取得した。環境保全に積極的に取り組む姿勢を内外に示すためである。
 ISOの認証取得は、運送業界においても、当時ひとつのブームになっていた。特に大手企業になるほど熱心であったが、品質マネジメントシステム(ISO9001)が中心で、環境マネジメントシステムのISO14001をターゲットにする企業は決して多くはなかった。小野正彦がその背景を語る。
「日本ペイントをはじめ大手荷主の皆さんは取っておられた。実際に取得を勧められたこともありましたが、必ずしも取らなければならないものではなかったのも事実です。ただ、今後の営業展開にプラスに働くこと、社員の環境保全に対する意識が強まること、何よりも産業廃棄物を手がける企業として取っておくべきだと考えた。」
 ISO14001では、組織を取り巻くすべてのヒト(地域住民、利害関係者)、モノ(水、空気など)に対し、組織が与えている影響を明確にし、悪い影響を与えているのであれば、それを解決させていくためのシステムをつくらなければならない。社内にプロジェクトをつくり、リーダーを決め、各部署に管理者を付けた。
もとより慣れない作業であったが、特に関係者を悩ませたのが審査に必要な資料づくりだった。自分たちが環境に与えているであろう負荷を洗い出し、それぞれに具体的な管理目標を設定し、それを実現するための仕組みを社内に設ける必要がある。結局、取得までには2年近くの歳月を要した。

ドライブレコーダーを全車装備

 栃木で発生した2件の死亡事故を契機に、「“安全第一”」を旗印に徹底した速度規制を自らに課した小野運送店。その後も、タコメーターがアナログからデジタル方式に変わると、業界に先駆けてこれを全車に装着。デジタル化されたタコメーターに記録されたデータを集計し、ドライバーの勤務評価に組み入れるなど、安全への投資はすべてに優先して行った。
 ドライブレコーダーを業界に先駆けて導入したのは、2010(平成22)年のことであった。まだ出始めで評価は定まっていなかったが、「事故が起こったときに検証できる」「常に監視されている意識をドライバーに持たせることができる」と小野正彦社長が導入を即決。直ちに全車両に装着を命じた。
 ドライブレコーダーはすぐに威力を発揮した。導入から1カ月後、深夜、北関東自動車道で無灯のまま車線をふさいでいた乗用車にトラックが激突し、女子高校生3人が死亡するという悲惨な事故が起こった。この種の事故は、一般的にトラック側に重大な過失があったと判断される。
 しかし、ドライブレコーダーに収録されていた画像から相手方の重大過失が判明。不可避に近い事故であったことが認められ、ドライバーは起訴を免れ、過失割合も3割で済んだ。小野運送店の安全確保への積極的な設備投資が、不可抗力の事故を証明したのである。

品川区より表彰

 2015(平成27)年12月末現在、小野運送店は従業員数250名、保有車両台数150台、売上高32億円を誇る地域有数の運送会社に成長を遂げた。小野為吉が創業以来、営々と積み重ねてきた社歴は119年の歳月を重ね、業界でも屈指の伝統を誇る企業となった。
 2016(平成28)年1月、品川区は「区内の企業として創業100年以上の歴史を持つ」優良企業として、品川区より表彰を受けた。ちなみに、1位はゼームス坂・旧伊達家下屋敷跡にある仙台味噌醸造所で、400年近い歴史を誇るという。
 2016年2月、小野運送店は創業120年を迎える。小野家の人々、そして小野運送店が紡いできた歴史は、こうして地域にしっかりと根を張る大木となり、その果実は品川区から表彰を受けるほどに熟したのである。

輝かしい未来を築くために

 今後、小野運送店は120年の歴史に学び、さらにその先に輝かしい未来を構築していかなければならない。創業120年を迎えた2016年、7代目社長小野正彦は新年の社内報『安全』に、次のような時代認識と未来への決意を述べている。
「顧りみれば、20世紀は大量生産が重視される“量”の時代でした。我々運送業界にもその恩恵が及び、商品を大量に運ぶことで収益を上げることができた、良き時代であったと思います。しかしながら21世紀に入って“量”より“質”が問われる時代になり、結果責任が求められるようになりました。すなわち、仕事の中身が、『品質』 や『信頼性』が重視される“知恵と工夫と努力”の時代になってきたのであります。
 知の時代に一番必要なことは仕事の『品質』を高め、顧客の『信頼』を得るための『おもてなし』『確実に顧客の要望を責任をもって実現すること』であります。それには顧客の信頼を得るため一人ひとりの『誠実な行動の実践』が必要です。」
 120年の節目を迎るに当たり、決意も新たに未来への歩みを始めた小野運送店。先代が築いてきた歴史を未来へとつなぐ自信と覚悟にいささかの揺るぎもない。今後はスローガンに掲げる「2034年度に50憶円売上達成、営業利益5%確保」を実現するため、関西、中京圏への営業拡大も視野に入れている。
 創業150年、200年に向けて、今、新たな小野運送店物語の幕が開かれる。